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This is how I feel about Q Quincy Jones ジャズ・ミュージシャンとしての“Q”クインシー・ジョーンズを偲ぶ

QUINCY JONES
※NHKセンターのスタジオで行われたリハーサル風景(1981年)©内山繁

アメリカ音楽界の大立者として君臨したクインシー・ジョーンズがこの世を去った。大物プロデューサーとしてその名を知らぬものはいないが,我々ジャズ好きにはクインシーはビッグバンドの革新的なリーダーであり,アレンジャー,敬愛すべきジャズメンとして深く胸に刻まれている。ここではジャズを愛し,ジャズメンたらんとしたクインシーの姿を今一度振り返ってみたい。

文:佐藤英輔/写真:内山繁

この11月3日に,クインシー・ジョーンズが逝去した。享年91。人呼んで,ビッグ・Q。その仕事は本当に多様で甚大だ。しかし,それは彼が青年期に知ったジャズの大衆性や洒脱や飛躍のあり方を素直にアップ・デイトさせただけではなかったか。
1933年,シカゴ生まれ。両親はともにアフリカ系だけでなく欧州系の血も入っていた。音楽への目覚めは5,6歳のときにストライド・ピアノを耳したこと。多感な時期を過ごしたシアトル在住期に彼はとトランペットとバンド・アレンジに熱意を注ぎ,1951年に奨学金を得たバークリー音楽院に進んだ。当時はまだビッグバンド全盛で,諸楽団は娯楽/社交の場の中心に位置した。そして,彼はライオネル・ハンプトンやでディジー・ガレスピー楽団で腕を奮ったり,若い頃からTVショウの編曲の仕事を得た。そんなクインシーの純なビッグバンド作として真っ先にあげるべき『私の考えるジャズ』は1956年の録音。また,54年録音のへレン・メリルの『ウィズ・クリフォード・ブラウン』も彼の編曲/指揮となる。
この後,彼は推しも押されぬ作編曲家/バンド・リーダーとして業界を闊歩するが,1961年にはマーキュリー・レコードの副社長についた。米メジャー初のアフリカ系エグセクティヴだったと言われるが,クインシーは同社から広い視野と大衆性を抱える自己ビッグバンド作を出すとともに,レスリー・ゴアといったポップス物件も担当。また他方,カウント・ベイシーやダイナ・ワシントンなども手がけた。

QUINCY JONES
※1981年来日時の記者会見におけるクインシー)©内山繁