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DIGとDUG 中平穂積と新宿ジャズ喫茶ストーリー譚 ジャズの聴き方は新宿とDUGが教えてくれた 戦後日本のジャズリスナーを牽引した,中平穂積とDUGの物語


※DIGの店内

ファインダーとレコードを通してモダン・ジャズの魅力を日本人に浸透させた立役者,中平穂積。新たな音楽文化を生み出す場として,新宿に「DIG」「DUG」を開いた彼の物語は,日本のジャズ史そのものだ。ジャズの名盤を語り,海外アーティストと交わり,写真でその瞬間を切り取った中平氏,彼の人生に触れることで,ジャズを「聴く」「観る」その本質が浮かび上がる。音楽と街が交錯し,生み出された熱狂のフレイズが,いまも新宿の鼓動となって鳴り響いている。

文:定成寛

ジャズとの出会い。そして新宿へ

「高校に入って和歌山の新宮市で親戚の家に下宿したんですが,叔父が映画が好きで毎週のように映画館に連れて行ってくれました」―中平穂積氏の高校時代,実に70年以上前,1950年代初頭の話だ。
そして中平少年は傑作ジャズ映画『グレン・ミラー物語』(1954年),特に劇中のジャズ・クラブのシーンに圧倒される。それが中平氏とジャズとの初めての出会いであり,また「この映画を観なかったら,ひょっとしたらそんなにジャズにのめり込むことはなかったかもしれない」という強烈な印象も残した。郷里で観たたった一本の映画が,中平氏の人生を変えてしまったわけだ。
いや,変えてしまったのは中平氏ひとりではない。彼が上京し,新宿で開いたジャズ喫茶DIGとDUGによって,数えきれないほどの人々がその人生を変えた。まさにジャズに「のめり込んだ」。なによりも彼ほどあらゆる種類のジャズを,その聴き方を,わかりやすく説いてくれた人物はいないのではないか。中平氏亡きいま,それを心から痛感するのだ。

モダン・ジャズ,フリー・ジャズの時代

スイング・ジャズの神髄,グレン・ミラーのサウンドで幕を開けた中平氏のジャズだが,日本大学藝術学部写真学科入学のため上京後,ジャズ黄金期をリアルタイムで体験してゆくことになる。写真学科の学生ということも影響してか,氏のジャズは絶えず映像とともにあった。マイルス・デイビス(tp)がそのサウンド・トラックをフィルムに合わせてアドリブで演奏したとも言われる『死刑台のエレベーター』(1958年),ジェリー・マリガン(brs)の名演が収められた『私は死にたくない』(同年)など,氏の会話の中にはモダン・ジャズ全盛期の「ジャズ映画」のタイトルが次々に登場する。「モダン・ジャズの人がどんどん映画に出る時代でもあった」,「ダンスのための音楽から『聴かせる音楽』に変わって来た」。1960年前後のジャズについて,中平氏はこう語る。

01.昭和39年新宿区役所付近から見た靖国通り
※昭和39年新宿区役所付近から見た靖国通り 写真提供:新宿歴史博物館